私は我流を押し通してコミュ障になった

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人付き合いが苦手に感じるようになったのは中学生の頃。

それまではなんとかなってたんです。

素の自分で生きてても平気だった。

 
中学1年のとき明らかに無視されるようになっちゃって。

「どうして?」「直すから、教えて。」

親に相談して促されたとおりの聞き方をしたら

「しつこいんだよね」って。

 

それから人付き合いがこわくなったんです。

どこまでが「しつこい」かわからないから常にビクビク。

近づけない、けど一人では過ごせない。

友達のようなものにすがる日々です。

かろうじて自分よりコミュ障な人と関わることで孤独を埋めてた節もあります。

 

できるだけ、頼らない。

できるだけ、話さない。

できるだけ、ドライに。

相手の言いたいことだけ聞く。

そんなルールを自分に課しました。

それでなんとか、「嫌われる」ってことはなくなりました。

が、深く関わることもできませんでした。

疲れ切って、「なんで一緒にいるんだろ?」と思うこともあり。

 

お互いに「離れるか、ぼっちか」だったから続いたのかもしれません。

 

 
 
高校はもっと悲惨で。

女子校だったからよけいに嫌われるのがこわくて。

 

もうホント誰にも話しかけられないんです。

話しかけないほうがいい、嫌われる・・・

変に親切にしないほうがいい、「偽善者」だと思われる・・・

笑顔なんてニヤニヤしてキモいと思われる・・・

けどドライに構えたら、一緒にいる必要がないと思われる。

 

あれ、どうしたらいいんだ???

 

そんな混乱と不安が強すぎて。

緊張しすぎてずっと表情が「怒」に見えてたらしいです。

 

素の自分じゃ好かれない、が完全に頭を支配していたんですよね。

どう接すれば好かれるのかわからない。

から、誰にでも好かれる人を見てひたすら嫉妬です。

 

「星が違うんだ」

「私にはこれが好き!と言えるものもない」

「けど友達いないと思われるのも嫌」

「友達欲しいけど、こんな私じゃ誰も好きにならない」

 

結局また、価値観があうわけでもない一匹狼系の人の後にくっつく日々

そんな私が一緒にいることを許してくれる人でしたけど、

日々の会話はその子の好きなバンドの話が9割。

やっぱり退屈でしたけど、

「この人に見捨てられたらひとりぼっち」

な思いが強くて、ウンウンうなずくのが精一杯でした。

 

 
そんな私でしたが、大学に行って好転しました。

 

「またうまく人と付き合えないんじゃないか」

例によってびびりまくり。

けど、入学式のオリエンテーションのあとの昼食時間。

「もう、友達作ろうなんて思わなければいいんじゃないか」

と、諦めて一人で食べようと思ってたら

1人の子がこちらに気づいて手招きしてくれたんです。

 

彼女の周りにはたくさん人がいました。

和気あいあいとした雰囲気。

 

こんな私でも受け入れられた・・・。

 
半端ない安心感でした。

 

彼女と一緒に接しているうちに

一人ぼっちでさみしそうな子がいたら

「こっち来て一緒に過ごそうよ」

と言えるようになりました。

 

余裕ができたんでしょうね。

 
そうして話しかけ耐性がついたら、だんだん誰に対しても緊張せずに話せるようになってきました。

色んな人と関わるうちに、自分とウマが合う人ともたくさん巡り合うようになっていきまして。

信じられないことに彼氏もできて。(今の夫です)

自分で声かけて関わって、いいなと思った人達との交流は今でも続いています。

逆に、声をかけられるのみの孤独を埋めるための関係性の人とは、徐々に疎遠になっていきました。

 

最初の彼女は蓋を開けたら愚痴っぽいタイプで、卒業してからはめったに連絡をとらなくなったけど、きっかけを作ってくれたことに心から感謝しています。

 
そうか、自分から関わりにいって合う人を選べばいいだけだったのか
という単純なことにあとになって気づいたのは
ごく最近です。

それも、読んでいた本にこんな内容を発見したから。

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誰ともうまく行かないと思ってしまうのは、受け身の人間関係しかないから。

受け身の人間関係とは自分で選んでない人間関係のこと。

例えば

学校のクラスメイト(たまたま同い年で同じ学区
その延長線の友達関係
職場の人(たまたま同時期にその会社に努めているだけ

 

さらに話しかけられるのを待ってスタートした関係だけだと

よほど美人だったり個性的だったりと見た目で魅力的でない限り、

相手はこちらを「かわいそうだ」と思って寄って来る
または孤独を埋める材料として寄ってくる
はたまた、何かをくれと求めて寄ってくる。

そういう人とはなかなか深くは付き合えない。

 

なぜなら

余裕がなくなって「助けてあげよう」という気持ちが薄れたり

他に孤独を埋めてくれる人が現れたり

要求してたもの(お金や承認やストレスのはけ口)が手に入ると

簡単に関係性が薄れてしまうから
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けど、「あ、この人いいな」「素敵だな」と思える人だったらそうはならない。

一緒にいて楽、落ち着く、楽しい、尽くしたい

そんなプラスの感情がわけば他の人が代わりになることはない。

いい影響を与えられるというのは希少なことだからだ。

相手に影響されて、自分もそういうことを提供しようと思う。

そうしたプラスのいたちごっこによって関係性は更に深まる。

こうして人は真の関係性を作っていく。

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って。

 
あの時、最初の子に引き入れてもらっておしまいだったら?

自分もその子の真似をして誰かを引き入れてみようとしなかったら?

 

真似なんかして、プライドはないのかと、
自分らしさはどうしたと、私はわたしのやり方でやるべきだと、

変な意地を張って彼女のマネをしなかったら?

 

多分今の私はないと思います。

 

誰かのやり方から学ぶこと。自分のやり方を疑うこと

これができるようになったから今の私がある。

どうどうと、真似していい。

今ならそう思えます。

 

考えてみたら、マネから派生したものっていっぱいあるんですよね。 

ひらがなだって中国の漢字を真似たものだし

自転車だって、乗れる人のやり方を真似て上達するもの。

赤ちゃんだって親のマネをしていろんなことができるようになるわけで。

 

真似そのものが悪いことではないんですよね。

 

真似がいけないのは、

真似をしたことで

真似される人が損して自分だけが得するとき。

それ以外は悪いことじゃないんですよね。

 

それ以来、私はこう考えます。

知識って、行動の後押しをしてくれるもんなんだな。

先人の知恵に学ぶって大事。

どんどん吸収して真似していこう。

学ぶほど、ブレーキが徐々に外れていくようで、身軽になっていく気がする。

と。

 

 

わたしが気に入っている作家さんで、  

日本一有名なニートのphaさんは著書の中で

知識は人を自由にする

って言ってたんです。

 

すごく、今共感してます。

学ぶこと、真似ることが
こんなにも人生を楽に変えてくれるなんて思わなかったから。

 

自分の思う「こうしたほうがいいだろう」だけで今までうまくいかなかったんだから、そこにしがみついてもうまく行かないんですよね。

うまくいってる人のやり方を真似たほうが、成功率は高い。

そんな単純なことに気づけた出来事でした。

 

もっと学びたい。
もっと変わっていきたい。

それを叶えることで私の人生は磨かれます。

これからもずっと。

 
 

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ABOUTこの記事をかいた人

HSP内向軽度ADHD 不安と卑屈でいっぱいの人生を心と頭に関する知識で改善。 知るだけで生きやすくなる思考を発信中。 ●刺激少なめゆとり生活 ●ギクシャク関係だった夫と円満化 ●過干渉な母との関係改善 ●人見知り克服 ●信頼・感謝の人間関係 ●自分に合うお仕事発見 ●注意欠如やパニックによる失敗の激減 3度の飯と読書がすき。